いま、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611)の「レクイエム」を聴きながら、夜を過ごしています。
ルネサンス期スペイン最大の作曲家と言われるこの人は、イエズス会士でもあり司祭でもあり、生涯、宗教曲しか書かなかったそうです。
今まで、あまりきちんと聴いたことがなかったのですが、先日ふと聴いてみたくなって図書館から借りてきました。
何か、張りつめたような美しい世界です。
今日は、カトリックの典礼暦では「死者の日」でした。
『毎日のミサ』の解説には、この習慣は998年にクリュニー修道院で始められ、11世紀には広く行なわれるようになった、とあります。
「せせらぎ」というサイトに、毎日のミサの朗読箇所と、黙想のヒントが載っていますが、今日の黙想のヒントが印象的でした。
「死は、その人の全生涯を寿ぐもの」だというのです。
→せせらぎのサイト(11月2日の項)
日本では一般的に死は忌むべきもの、不幸なもの、「お気の毒」なもの・・・etc.という風にとらえられています。
でもキリスト者にとって、死は新しい生の始まりの日なのです。
ただ、この世を通り過ぎていくのではなく、独り子を与えたほどにこの世を愛された御父のように、この世(或いは生活)を愛し、自分に与えられた役目を果たした末の死に対して「寿ぎ」と言うことができるのでしょう。
(自戒をこめて)
「せせらぎ」の黙想のヒントはたぶん複数の筆者が書いておられるのでしょうが、ときどきとても深く心に残る文章があります。
「せせらぎ」の今日の箇所にありましたが、この文を書いた神父様は、10月4日に帰天されたとのこと。
名前を存じ上げない神父様でしたが、いままで心に残ってPCに保存したことのある数々の「黙想のヒント」はこの方が書かれていたのかもしれません。
、
もう一つ。
アシジの聖フランシスコの書いた「太陽の賛歌」という詩に、こんな一節があります。
「わたしたちの姉妹、体の死によってあなたを賛美します」
死というものさえ「姉妹」と呼び、それを神への賛美の方法にする・・・私が初めてアシジの聖フランシスコの存在を知って、衝撃を受けたのがこの部分でした。
(辻邦生氏のイタリア紀行文の中で触れられていたのです)
「太陽の賛歌」には、次のような一節もあります。
「神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です」
昨日の福音朗読にもそのような言葉がありました。
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」
世の中には「こうすれば夢はかなう」といった類の本が山のようにあります。
夢はたしかに生きる希望にも励みにもなり、決してそれを否定するわけではありませんが、個人的には私は「自分の夢」はもういい、という気がしています。
若い頃はさんざん「自分の夢」(と思っていたもの)を追求して、全エネルギーを注いでいました。
でも、神が(運命が、と言い換えることもできるかもしれませんが)それを望んでいなければ、どんなに一人で頑張っても完全には実現しないのだ、とある時期骨身に染みてわかったのです。
(それをきっかけとして受洗へ向かったのですが)
「自分の夢」ではなく、「神の夢」を果たす・・・その小さな手伝いをする。
それを人生の目的に。
(その割にはNHK杯のチケット!とか騒いでますけれど・・
)
話の逸れついでに。
今日は、ある所で実に美しいミサに与りました。
美しい典礼の場にいると、天上と直結しているような幸福感に満たされます。
たぶん直結していたのでしょう。
美しいもの、静かなものというのは、この世と天上とをとりもつためにあるのでしょう。
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